東京女子医科大学病院 膠原病リウマチ痛風センター
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膠原病リウマチ痛風センターの30年のあゆみを振り返って

現在センターを預かる所長として、そしてセンター30年の歴史を最初から現在まで知る唯一の存在として、センターの歴史を振り返り、当センターの今後あるべき姿を再考してみたい。

設立までの経緯

東京女子医科大学にリウマチ痛風センターが産声を上げたのは1982年12月1日である。

東京女子医科大学には日本心臓血圧研究所(心研)、消化器病センター、脳神経センターをはじめとして内科系と外科系が複合した医療センターが複数に存在し、東京女子医科大学が大きく発展する駆動力であったことは周知のとおりである。これらのセンターが東京女子医科大学病院の中にある医療センターであったのに対して、「リウマチ痛風センター」は東京女子医科大学病院とは独立した別の医療施設として発足した。これには相応の理由がある。

1980年当時、痛風や関節リウマチは特殊な疾患であった。特に痛風に関しては、日本においては比較的歴史の浅い疾患であったことも相まって社会的認知度も低く、医療体制も不備であった。全国に数か所「痛風外来」と銘打った専門外来が存在し、患者の多くは専門外来に受診するために遠路はるばる上京すると言う状況であった。

当時、我が国の痛風診療の中核的存在であった御巫清允先生は虎の門病院整形外科部長、のちに自治医科大学整形外科教授として痛風診療の標準化、均霑化に努力をされ、政財界の重鎮の後押しもあって痛風の診療と研究を支援する財団法人の設立に尽力されているところであった。その経過の中で御巫清允先生門下の西岡久寿樹先生(当時、三重大学助教授)、井上和彦先生(当時、自治医大整形外科講師)と共に痛風診療の中核となる施設の重要性が議論された。そして御巫清允先生と御同郷の田村元代議士(元衆議院議長)、東京女子医大OGで東京女子医科大学常務理事の川野辺静代議士のご紹介で、当時の吉岡博人理事長に相談されたところ、吉岡博人理事長が患者さんのためになる医療施設の必要性をご認識頂き、東京女子医科大学に痛風診療の施設を設立することの検討が開始された。ただし痛風のみに特化した医療施設では経営的にも将来像でも十分な体制と思われなかったので痛風を包含するリウマチ性疾患の医療施設を目指す意味で「リウマチ痛風センター」の名称が考案された。すなわち、リウマチ痛風センターは既存の東京女子医科大学で既に行われていた医療を発展的に独立させたのではなく、全く新しい体制を東京女子医科大学からみれば外部の人々を中心に設立された。この点が前述の心研や消化器病センター、脳神経センターなどとの基本的な違いであり、これが東京女子医科大学病院とは独立した医療施設として発足したひとつの理由である。

当時の吉岡博人理事長は、この施設が経営的に成立しうるかどうかに大きな不安を持たれていたとのことである。確かに社会的認知度が高くない疾患に特化した医療センターであり、国内でも全く前例がなかったのでその心配は容易に理解できる。東京女子医科大学病院の内部ではなく、独立採算のセンターとして発足した理由の一つはこのことであったかもしれないと愚考する。しかしながら川野辺静代議士、田村元代議士の強力なご助言もあり、吉岡博人理事長が最終的に設立を英断され、初代所長を兼任していただけることになったことは、今から考えると慧眼であり、深く感謝申し上げる次第である。

創設当初から御巫清允所長の時代

東京女子医科大学附属リウマチ痛風センターが開設されたのは1982年11月1日である。当時の陣容は所長吉岡博人先生、助教授西岡久寿樹先生、講師井上和彦先生、岩谷征子先生(東京女子医科大学糖尿病センター)で、大友宏氏が初代事務長として開設準備を担当された。12月1日には多くの関係者をお迎えして、開所式が盛大に開催された。厚生労働省からは当時の医務局長であられた大谷藤郎先生が祝辞を述べられた。私事であるが大谷藤郎先生は私の亡父と同郷、同窓であり、私も幼少時から可愛がっていただいた方であり、不思議なご縁を感じたものである。

そして12月1日から診療が開始された。この時点で私(山中寿)が助手として採用された。1982年に開設されたリウマチ痛風センターは、その年に竣工したばかりの新宿NSビルの一角にわずか228㎡のスペースであり、診察室は3つ。多くの関係者が成功を疑問視する中で発足したリウマチ痛風センターであったが、開設当初より多くの患者さんが受診し、その存在は一躍有名になった。リウマチ・痛風という疾患名を施設名に入れたユニークな試みも成功であった。当時は「リウマチ科」という標榜科はなく、リウマチも痛風も整形外科と内科のはざまのような位置づけで、診療の主体が定かっていなかったことで考案された名称であるが、結果的にこれ以降、全国に同様の名称を冠した医療施設ができる先駆けとなった。

1983年には開設の主体であった御巫清允先生が自治医大教授を辞してセンターの第2代所長に就任され、開設当初から非常勤講師であった鎌谷直之先生が東京大学物療内科からセンター講師として移籍された。そして新宿NSビルで外来診療を行うと共に、井上和彦先生が同ビル内で関節鏡手術も開始し、鎌谷直之先生が小さいながらも研究室を設置して細胞培養や液体クロマトグラフィーを用いた研究を開始した。ところがセンターの患者数は予想外に伸び、NSビル4階の3つの診察室では対応できなくなって、開設1年後の1983年10月にはNSビル3階部分に262㎡を新たに借用して外来を移転、さらに1986年にはNSビル4階に新たな445㎡を賃貸することができ、再び外来部門を拡張移転した。現在のNS分室はこの診療スペースを使って診療を継続している。

このような診療面の急成長に対応して人材獲得にも多大な努力が払われ、宮坂信之先生(現東京医科歯科大学教授、病院長、日本リウマチ学会理事長)、寺井千尋先生(現自治医科大学埼玉医療センター教授)、佐藤和人先生(現日本女子大学教授)、森田秀穂先生(故人)らの優秀な人材がセンターの常勤医師として活躍された。その他にも多くの優秀な医師が非常勤講師としてセンターの医療、研究を支えていただき、現在の日本リウマチ学会で中心的活動をされている人々の多くは当センターと何らかのかかわりを持っていると言っても過言ではない。実際にこの時期の人材確保がセンターの今日の礎になったと考えられ、診療面だけでなく研究面でも優れた業績が次々と発表されて、国内でも有数のリウマチ性疾患診療研究施設へと発展した。

柏崎禎夫所長の時代

1988年3月に御巫清允先生は定年で退職され、1990年3月に北里大学膠原病内科教授であった柏崎禎夫先生が第3代所長に就任された。御巫清允先生が痛風に対して情熱を燃やされたように、柏崎禎夫先生は関節リウマチと膠原病に対して情熱を燃やされた。そして1992年1月にセンター名を「リウマチ痛風センター」から「膠原病リウマチ痛風センター」に改称された。痛風、関節リウマチ、膠原病などは広くリウマチ性疾患と分類されているが、リウマチ=関節リウマチのイメージが強く、リウマチセンターと称すると関節リウマチに特化した医療施設と思われてしまう可能性がある。当初から「リウマチ痛風センター」と称したのもその理由であったが、今度はリウマチ痛風センターというと膠原病が入らないのではないかとの指摘があった。柏崎禎夫所長が熟慮の末に「膠原病リウマチ痛風センター」という長い名称に改称されたのは、患者さん目線からわかりやすい施設名をつけることを最も重要視された結果であるが、その頃「リウマチ科」の標榜科を求める運動もおこっており、リウマチ性疾患の認知度が高まってリウマチ=関節リウマチと言うイメージが変化するだろうとの見込みもあったようである。当時は金融機関の合併が進んだ時代で、三井銀行と太陽神戸銀行が合併して太陽神戸三井銀行という長い名称になったが、結果的に1992年にさくら銀行に改称している。柏崎所長は当センターも膠原病リウマチ痛風センターから新たな名称になる可能性も考えておられた。ただし、1996年に「リウマチ科」が標榜科として厚生省から認められたものの、2012年の現時点においてもリウマチ=関節リウマチの社会的認識は変わっておらず、当センターの名称はそのままである。

この時代には膠原病リウマチ痛風センターにとって大きな変化が2つあった。ひとつめは、1992年1月にセンター本部を新宿NSビルから河田町に移転し、さらに1997年9月に現在の膠原病リウマチ痛風センター本部の落成に至ったことである。新宿NSビルは分室として存続するものの、本部を河田町キャンパスの近くに移転させることで東京女子医科大学自体とのつながりはもとより各診療科と連携を強めるとともにアカデミアの一員として教育活動にも力を注ぐことを意図した柏崎所長の見識を実現したものである。

ふたつめは、1992年5月に竣工した東京女子医科大学附属青山病院に念願の病棟が持てたことである。当センターは前述のとおり東京女子医大病院の中から派生したセンターではなく、外部から全く新しいセンターとして開設されたと言う経緯があるため、東京女子医科大学病院には病棟が持てなかった。これは当センター開設以来の最大の問題点であり、特に整形外科にとっては東京女子医大で手術ができないと言う致命的な問題であった。しかしながら病床数の規制やいろいろな外部事情もあり解決策がなく、御巫清允先生が退職後に開業された戸田中央病院グループ傘下の「みかなぎ五反田病院」にてセンターの病棟の替りとして手術や入院治療をさせていただくことで何とかつないでいたのが現状であった。当センターにとって幸いなことに建設計画が進んでいた東京女子医大大附属青山病院は難治性疾患を扱う病院として地元医師会との調整が進んでいたので、1997年5月の開設時に膠原病などの難病を扱う膠原病リウマチ痛風センターが念願の病棟を持つことができた。

柏崎禎夫先生は和を尊び、人を愛し、教育の重要性を説いた所長であった。柏崎先生は防衛医大から原まさ子教授、北里大学から米本光一講師、慶応大学から齋藤聖二講師などの優秀な人材をリクルートされ、当センターをハード面から大きく変えるとともに、後進の育成に力を注いだ。そしてその結実を目前にして1997年4月に病に倒れられ、その年の11月に他界された。1997年9月20日に行われた膠原病リウマチ痛風センター本部の落成式は柏崎先生の東京女子医科大学における最後の講演であった。また柏崎先生は日本リウマチ学会会長のまま他界されたため、主宰されるはずであった翌1998年4月の第42回日本リウマチ学会では、他界される1週間前に病室で撮影した柏崎禎夫先生のメッセージを幻の会長講演として東京国際フォーラムの大ホールで映写した。医局員のみならず柏崎先生を慕う多くの聴衆の涙を誘った最終講義であった。

鎌谷直之所長の時代

柏崎先生のご逝去の後、当時の医学部長であった高倉公朋教授(脳神経外科学)が所長代行としてお勤めになられた後、1998年5月に鎌谷直之教授が第4代の所長に選出され、センターを運営された。センター創設時から尽力された井上和彦教授が東医療センター整形外科教授として転出された後任に戸松泰介教授を、また内科教授として齋藤輝信教授を迎えられ、陣容が整った。

鎌谷直之所長は柏崎禎夫前所長が図らずもやり残した諸問題を継続的に解決し、ほぼ極限まで増加した患者数への対応に尽力された。2003年には関節リウマチに対する最初の生物学的製剤が発売され、当センターでも関節リウマチ治療の新時代に対応できる診療体制の整備が行われた。

鎌谷直之先生は、特に研究面で大きく貢献され、大学病院の付属施設としてアカデミアの果たすべき研究に力を注がれ、飛躍的に進歩したゲノム医学を臨床に取り入れるとともに、医局員に統計学の重要性を説き、EBMの実践に力を傾注された。ちょうどヒトゲノム計画が終盤を迎え、世界的にゲノム医学への関心が高まっていた時期であり、センターも日本国内でのゲノム医学の基盤整備の一翼を担った。鎌谷先生は東京女子医科大学大学院先端生命医科学系専攻遺伝子医学分野も担当され、本学における医科遺伝学の教育にも尽力された。センター内にも遺伝統計部門を設けて毎週講義を行い、人材の育成に努められた。当時、遺伝統計部門にいた人たちは医療統計などの各方面で活躍している。また鎌谷先生は日本人類遺伝学会第52回大会の会長を務め、多くの参加者の記憶に残る会長講演を行われた。

診療面においては、個人の遺伝情報に基づき最適な医療を決定するテイラーメイド医療の開発を行い、ゲノム倫理審査委員会の承認を受けて臨床応用した。このような先進的医療を探求するとともに、山中寿が中心となって関節リウマチ患者を対象とする大規模観察研究J-ARAMIS(現在のIORRA)を2000年から開始した。IORRAは画期的なコホート研究であるが、統計学のセンターにおける充実と相まって発展した。IORRAは統計なしには成り立たないが、逆にIORRAがあったので統計学を利用する機会が生まれて、医局員は統計学の重要性を実感できた。

この時期は、膠原病リウマチ痛風センターとしては経営的にも安定し、診療でも研究でも教育でも着実に成果を積み重ねた時期であった。

鎌谷直之先生は2008年4月に任期6年を残して突然に辞意を表明され、皆に惜しまれながら2008年7月で退職された。当センター所長在任期間は現在までの所長で最も長い10年間である。鎌谷直之先生は、退任後、民間企業スタージェンに情報解析研究所を設立されて今後の医学を担うインフラ作りに傾注されるとともに、理化学研究所ゲノム医学研究センター長として新たな飛躍を遂げられた。現在も客員教授としてセンターのご指導をいただいている。

山中寿所長の時代

鎌谷直之先生が当センターを任期途中で辞任され、2008年8月から、後任の第5代所長を山中寿が拝命した。この時点における最大の問題点は病棟体制と救急医療であった。痛風で始まり、関節リウマチで大きくなったセンターも広くリウマチ性疾患全般をカバーするようになり、膠原病患者が増加した。膠原病は多臓器疾患であり、内科各科のみならず皮膚科、眼科、耳鼻咽喉科をはじめとする各科との診療連携がますます求められるようになった。一方、関節リウマチに生物学的製剤が導入されるようになり、患者の治療成績は向上したものの感染症をはじめとする医療安全の問題が大きくなりつつあった。河田町に外来があり、青山病院に病棟があると言う地理的不便さもさることながら、かかりつけ患者の夜間救急に対応できないことなどの問題が大きくなってきた。

2010年3月、東京女子医科大学病院に第一病棟が竣工したことを期に病棟の再編、二次救急システムとしてのEmDの整備などが行われ、膠原病リウマチ痛風センターも新しい枠組みに編入させていただけることになった。

永井厚志統括病院長をはじめ多くの関係者のご理解を得て、2010年3月に東京女子医科大学病院に新しい診療課であるリウマチ科を新設し、病棟を青山病院から東京女子医科大学病院中央病棟10階に移転することができた。同時に二次救急システムとしてのEmDにも参加し、病棟当直も含めてかかりつけ患者の対応などにも改善させることができた。したがって、現在は膠原病リウマチ痛風センターで外来を行い、東京女子医科大学病院リウマチ科は病棟のみで外来を行わないという変則的な形にはなっているが、患者さんに対しては以前よりも格段に安心な医療が提供できていると考えており、今後のあり方に関しては時間をかけて議論していきたいと考えている。

いまひとつは診療システムの電子化であり、2012年8月から検査システムの電子化が開始された。今後は東京女子医科大学大病院の電子カルテシステムの更新に合わせ、膠原病リウマチ痛風センターのインフラ整備も進めていきたい。
研究面では、関節リウマチに対する観察研究IORRAが開始して10年を超え、世界的にも注目されるデータベースに成長している。本年からは東京女子医科大学糖尿病センターでも同様の観察研究が開始され、IORRAはこのような研究の国内のプロトタイプになりつつある。

教育面でも、大学としての東京女子医科大学の卒前、卒後教育に積極的に貢献しているが、IORリウマチセミナーと銘打って全国の若手医師を対象に当センターの医師がリウマチ性疾患の診療を指導する研修会を開始した。毎回募集定員を大幅に上回る応募があり、毎回大盛況である。リウマチ性疾患に関する日本で最大の診療研究施設としての社会的責務を果たすべく、大学の枠組みを超える教育への貢献が必要と考えており、今後も継続したいと考えている。

30年を顧みて

1982年にリウマチ痛風センターとして開設された当センターは、開設以来30年間を迎えるが、臨床面でも研究面でも教育面でも順調に発展した。結果的に単年度で一度も赤字を出すことなく安定的に経営できており、東京女子医科大学に対しても貢献できていると考える。

対象患者層としては痛風→関節リウマチ→膠原病と発展してきた当センターであるが、今後さらに他の診療科との連携を深めながら、リウマチ性疾患全般の診療、研究、教育の中核としてさらに発展するように尽力したい。

このように当センターが大きく発展してきた理由はたくさんあると思うが、私はその要は、孟子の「天時不如地利。 地利不如人和(天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず)」にあると考える。社会環境の変化により致死的疾患からリウマチ性疾患のような長期のQOL改善が求められる疾患の治療の重要性が認識されるようになり、また生物学的製剤をはじめ多くの新しい治療手段が開発されて、今、リウマチ性疾患には追い風が吹いていると言われる。確かに「天の時」がある。しかし当センターが成功したのは東京女子医科大学と言う完成された既存のインフラがあったからであって、当センターはこの「地の利」を生かすことができた。首都東京のど真ん中である新宿の「地の利」ももちろんある。しかし、30年を顧みてそれを上回るものは「人の和」である。上記のごとく開設当時から綺羅星のごとく優秀でしかも高い見識を持った人々が当センター発展の駆動力となってきたことは疑いがない。さらに大きすぎない施設の利点として、医師、看護師、放射線技師、理学療法士、栄養士、そして事務職が一丸となってより良い医療の実現のために尽力しており、またお互いの風通しがきわめて良く、まさに「人の和」を得ている。

このことは、当センターの30年を振り返り今後の発展に思いを馳せる時には夢にも忘れてはならないことと肝に銘じ、現在まで当センターの発展にご貢献いただいた多くの方々に深甚の謝意を表するものである。

山中 寿
開設30周年記念誌より(発刊2012年12月、職名など当時のまま)